久々に歴史関係の見学に。
紛らわしさ抜群の金沢文庫ですw
ほんと駅名が同じだとわけがわからんw

称名寺の参道はいかにも夏って感じでいいねえ。
DSC_0294

称名寺通って。
DSC_0295

金沢文庫へ。
DSC_0296
大人250円。
小さい資料館ですが、今回の展示はテーマがもう素晴らしく私ゾーンw
鎌倉幕府滅亡後に称名寺周辺がどうなったか、秀吉が北条氏を滅ぼすあたりまで解説している。
この政府滅亡後というテーマがねえ、興味あるんだよねえ。

内容的には1Fの入り口で少し今回の展示の解説して、あとは1Fは常設と変わってないと思う。
2Fは全部今回の展示の解説になってた。

内容を大まかにうろ覚えだが。
鎌倉幕府滅亡、金沢氏滅亡で1333年建武の新政始まる。ここで称名寺は足利尊氏に寺領を安堵される。
だけどこのあたりはあまり政治的な支配は空白地だったそうで、勧進したり、六浦のあたりは政府ではなく、民衆の互助組織を立ち上げたらしい。
んで幕府滅亡後10年以上して、滅んだ金沢氏の13回忌を行えたようだ。
裕福な檀那集もいたようで、大きな葬式だか七回忌だかやっている。

だけど1359年にはもう、寺も民衆も衰亡してきて、貯えもなくなって僧侶が嘆く文章が残っている。
この頃、周辺の鎌倉府系の豪族かなんかが寺領を奪おうとしてきたり、もめごとが起きてずっと続く。

さらに20年くらいで称名寺は遠く離れた加賀にも領地があったそうだが、その年貢がやがて届かなくなってしまう。
だから近い土地と交換してもらったらしい。
それでもまた10年くらいで伽藍の修繕しているねえ。
んで1400年台に入ると称名寺の子院である大宝院のほうが羽振りが良いらしい。
なんか独自行動して儲けてた模様。

今の大宝院ってすぐ近くにあるらしいんだけど、全然それらしいものがなくw
DSC_0299

ある家っぽいところの札がそれらしい感じだが、読めんw
DSC_0298

なんかほんと栄枯盛衰って感じ。

んで、まあだんだんと戦乱の話が増えてきて。
どうも寺領に軍勢が入ってきたようで、武将たちが禁制したりってのが目立ってくる。

んで、1435年の資料が面白くて「他言できない重大事を託された」っていうのがある。
これが面白いよねえ。こんな資料があるなんてワクワクしちゃうw
その後のことを考えると、展示では足利持氏の幕府への反逆がらみのなにか、と見ているそうで。
ほんとその後の展開を考えると、そんな感じ。

足利持氏、鎌倉公方の持氏が幕府に反抗するのが1438年の永享の乱で、
さらに称名寺が戦場となって、持氏が寺にこもって、長尾忠政(関東管領・山内上杉家の家臣)の軍勢が囲んで、そこで持氏が出家するという。

ただ展示にはなかったけどWikiとか読むと、この際、持氏の家臣の一色氏もいて、こちらは称名寺で滅んだらしく。だから囲まれたというか、もう合戦が起きてたわけですよね。
寺も荒らされたりしたそうで。

ただ結局持氏が殺されてからは、忠政が称名寺に伽藍の修復のために関で通行税を取る許しを与えているみたい。
壊れたから、それを直すための金集めていいよ、って感じでしょうか。
このあたり、当時の戦争の様子というか、たとえ敵将がこもっていたとしても、寺の人間を殺すとか滅ぼすってわけではないんでしょうねえ。神仏の加護がある感じ?
ただ書物の接収を命じられたとか(違う時代かも)。
書物の価値を認められたというか。

んでその関で狼藉を禁じる指令が忠政から出されているんだよな。
これって、称名寺の関係者が関で、通行人に乱暴とかしているんじゃないだろうか?
金を強引に奪ったりとか。
この時代って今の常識と明らかに違うからなあ。
単純に寺社仏閣や民衆が=善良な一般人みたいな感覚では無い。

で、足利持氏の子、成氏が鎌倉公方になるのが1447年。
彼もまた室町幕府と対立して古河公方になって、だんだんと関東が独立していくだんけど。
その頃に扇谷上杉氏の家臣・菅野氏だったかが、金沢の寺の再興などに取り組んだらしい。
この扇谷上杉氏の家臣に50年後くらいに北条早雲が出てくるんだなあ。
いやはやダイナミズムというかゴチャゴチャというかw

1484年には江戸城をつくった男・太田道灌(扇谷上杉家の家臣)がきたり、甲州から穴山氏が見物にきたらしい。穴山氏といえば本能寺の変後に徳川家康と別行動して殺された穴山梅雪でしょ!甲斐武田氏の有力武将の祖先が訪れていた、と。

それくらい名高い寺として名声は維持されてたってことですな、称名寺。

で、1498年だったか、東海地震と大津波が起きるんですな。
これをキッカケに混乱が始まり、北条早雲が下克上を開始するらしいです。
地震キッカケだったんだねえ。
これが戦国時代の始まりとも。

まあその地震の法要、3回忌か、を称名寺ではやっていたりします。


んでこの時代からは北条早雲が関東の覇者みたいなもんですが、そこに有名な三浦道寸との戦いがあるんですなあ。
最終的には油壺のところで同寸はじめ三浦一族(というか相模三浦氏ですか)が1516年に滅亡する、と。
その血であの湾、というか当時の資料によれば港が油のようにべたーっとなった、って話がありますが。
それが油壷の由来、と。
本当かどうかしりませんが、というかその前から言われてたんじゃないのか?って思うんですけどw
だって油壺湾ってあの地形になってからずっとベターって感じでしょうからねえ。
もちろん大量の死人がいたら血があまり流されずに、赤くベットリと染まったとは思いますが。。。

まあ、ともかくその頃は、称名寺は敵味方どちらにも少しずつお金を渡していたらしい。
この少しずつってのがね。
窮乏を感じます。

んで50年後には今度は長尾景虎……上杉謙信登場!
称名寺は上杉謙信に荒らされます!www
ひでえw
1561年だから北条氏康がこもる小田原城を攻撃してきたときか。
この年に鶴岡八幡宮で謙信は関東管領になっている。
こいつw
関東管領になるときか、なったあとに近くの寺を攻めてんのかw
狂ってるなあ。
ほんとこの頃の人たちの感覚は尋常じゃない

あ、この1年前1560年は織田信長の桶狭間の合戦ですよ。今川義元を討った。
まさにザ・戦国時代。


1567年に茅ヶ崎の円蔵寺に相模地方の僧侶たちが集まって法談をしたそうな。
そのときの文章が「乱世の中で名残惜しい清談の場で感動した」という内容。。。

もうよほど酷い時代なんでしょうなあ。

なんだろう、井伏鱒二が戦争中や戦前戦後に釣りに行ってた話があるんですが、
そのときの雰囲気に似てるんだよね。
戦後に釣り宿の女将さんに久しぶりに会って
「あのとき一緒に釣りをしていた上手い人はどうしたの?」って聞いて
「徴兵されて戦死なさいましたよ」みたいな受け答えをしている感じ。

もう川筋の宿で、季節は夏ですよ。
日陰の部屋でセミの鳴き声がうるさくて、蒸し暑くて。
そこで窓から川を眺めて、あの人は戦死したのか……と思いを馳せる井伏鱒二の情景ですよ。
いや、妄想だけど。

まあともかく戦国時代ですからねえ。
東京湾も戦場になったとか。
そのとき金沢の豪族で海運をしていた山口氏が、北条VS里見という状況で、
敵地でも交易できるよう免許もらってたらしい。
やるなあ。
というかこの時代は交易する人も商人でも豪族、武装しているわけで。
やっぱり商人のイメージと違うよねえ。
江戸時代的なお主も悪よのよう的な商人ではないんだよなあ。


1590年の秀吉の小田原征伐では、北条氏から称名寺と門前の村に兵糧の保管が命じられる。
で、北条は滅亡するわけで、展示ではそこまで。
最後に称名寺や村への狼藉を禁止する秀吉の命令で終わり。


小さい資料館ではありますが、内容も絞ってくるので250円なら安いもんです。
図書室も使えるし。
小さいけど。
宗教と歴史系の資料がありますし。歴史好きな人には穴場だな。

夏ですなあ。
8月ですよ。。。
あっという間にというか。
早過ぎるなあ。。。
DSC_0300