朝食、麻婆茄子、照り焼きの鶏肉

昼食、なし

夕食、油揚げピザ、ヨーグルト

この油揚げピザが凄まじい下痢を引き起こしたw
水のようだ。
体調はとくにどこも悪くないのだが、ひたすら水のような下痢、というのは結構壮絶なんだかマシなんだか、というw

本日は1万3000歩。
仕事で都内に行ったので武蔵国分寺跡を一度見ておこうと。
国分寺駅まで行ってあとはほぼ道なり。
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国分寺駅周辺がそもそも台地の上というか。
この台地から水が染みこんで、湧き水となって国分寺跡へと流れているんです。
ちゃんと国分寺の立地条件も考えられているのが分かる。
それとこのあたりはなんというか昔から田畑があったんだろうなーって感じがする。
山に囲まれていないのがね。
今では開発がむちゃくちゃ進んでしまっているけども。

国分寺公園のところで雑木林の道とか言うのに入る。
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国分寺公園自体は、国分寺に近い公園っていう意味のようで、跡地にあるわけではなさげ。

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跡地は森が入り口。
ここで地図があったんですが、いやー武蔵国分寺跡地は広い!
本当に広い。
相模の国分寺跡地よりさらに広いのがよくわかった。

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こういう湧き水があるんですよー

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野菜の直売所があって惜しいことをした。。。
このときSuicaしか無かったのよ。
もっとも西国分寺駅内で野菜売ってるんだけどw あそこならSuica使える。
このあたりの小川にはホタルもいるそうです。

あとやっぱりというか何というか、もやもやさまぁ〜ずとかちい散歩とかブラタモリでこのあたり来ているそうなw
まあ都内では珍しいほどの小川のある森ですわ。

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こんな趣のある道を通るんですよ

近くに資料館があるんですが、月曜休館日。。。。もっとも現金ないので入れないですが。

ややこしいのが、国分寺は再興されて、現・国分寺もあるというのがw
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現・国分寺とその楼門。
楼門はもともとは別のところにあったそうで。
なんかどんどんややこしくなるなw

ただこれらも200年くらい前の歴史があるそうな
ええともともとの武蔵国分寺は鎌倉時代に合戦で燃えたそうで、それを新田義貞が再興。
だけどまた廃れてまた再興した、というw
今は立派なお寺さんですが、規模は超縮小。

ただねー武蔵国分寺が741年の聖武天皇の勅でつくられたとするじゃない。
その後1200年台まで残って燃えたわけで、それだけで500年の歴史がある、ってことになるわけで。
それが可能なのかと。
ただなー律令国家〜平安時代までの流れって、まあ一応天皇制がもっとも機能してた時期でしょうから
ちゃんと機能し続けていてもおかしくないのか。

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現・国分寺の薬師堂
なんかミツバチの巣やスズメバチ危険とか、ハチのたまり場w

その脇の八幡神社
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由来はよくわからんが。
ただ八幡神社ってことは源氏ゆかりの?新田義貞と関係あるんだろうか

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神社の裏に竪穴式住居があって、これがもともとの武蔵国分寺周辺の住民のものでは、と。

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あとここの神社の狛犬はちょっとかわいいかも。
昭和8年製だっけかな

で、本気の武蔵国分寺跡
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うーとね。
面積自体はすごい広いんですが、相模国分寺跡のように広々とつながっていなくて、道路や住宅で分断されていますw
なので広々ーという感じはあまり。
まあ広いッチャー広いんですが、相模のような広さを期待すると拍子抜け。
ただし周辺の跡地の空き地を回っていると、本当に広くて。
礎石も残ってますし。

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これは七重の塔があったらしい跡地。
一度焼けて埼玉の方の役人の長官が復元したらしいんだが、その後失われた模様。

離れたところに武蔵国分尼寺跡。
相模と違ってここはかなり整備されている。
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真ん中を鎌倉街道が突っ切るというw

なんかこの話からしても、鎌倉時代のあたりにはもう武蔵国分寺とかの影響がなくなっている感が。
やっぱりその頃には消失してたんでしょうかねえ。

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10人くらいの尼さんと見習い、召使いとかがいたらしいんだが、その規模をどう維持していたのか。
どのように崩壊していったのか。。。

ただなあ、考えてみれば国分寺や国分尼寺ってのは天皇がつくれって言ってるわけで、じゃあそこは天皇の土地ってことにならんかね。
そう考えるとなんか有効利用されなかった理由がそのへんにありそうな。
天皇の土地に住むとか、砦とか館として再利用って、しにくいか。
滅んで再利用って軽々しくできにくい土地だったのかもなあ。
だから中途半端に畑になっていたりするんだろうか。。。。

最後に西国分寺駅に向かいながら「東山道武蔵路」を見に。
これってブラタモリだかタモリ倶楽部だかでやってたような。
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この黄色い路が昔の路の跡だそうで。

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発掘のレプリカ。
うん、明らかに歩きにくいなw
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説明板が面白い。
この古代の道を見ると中心が奈良・京都周辺だとよく分かる。

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当時の道って意外とまっすぐなんですよね。

ただね、看板やWikiとかで調べると、当時の旅の過酷さというか。
あまりにも街道を通っていて途中で餓死したり病死する人が多いので、救護所として「非田処」ってのを作ったそうで。

今だったら考えられないよな。旅の途中で餓死するんだよ。
だけど江戸時代とかならともかく、宿も集落もほとんど無い時代なわけで。集落があっても竪穴式住居だしなあ。そんな時代にそもそも道中で気安く食料を得ることはできないわなあ。。。。

なんか当時の旅って本当に死を覚悟するものだったんだな、と。
そんな死を覚悟する旅をして、国分寺や国分尼寺へ送られてくる僧や尼さんってさ。。。
もしかしたらすごい貧乏貴族の娘さんとかが押し付けられて送られてきたんではないか、とか、あるいはもう家で持て余した不良娘を殺すつもりで親が送り込んだとかさ、ありそうでさあ。。。

寺や道の崩壊って最後がどうなっていたのかってよくわかってないんだが、それって逆にいえば記録できないほど統治能力が落ちて、国家が破綻していたってことだからどうにもねえ。
滅んでいく世界を傍から見る分にはノスタルジックなんですが、当事者の気持ちを考えるとなあ。
途方に暮れて、餓えながら都へと帰っていったりしてないかと。

そもそもそういう経験をしていれば、何か記録を残そうと思いそうなものですが、そういう記録が無いということは逆にそういう経験をした人たちが、その後もそれどころではない苦境を背負っていた。皆滅びに巻き込まれて生き残ることはできなかったのでは、とまで考えてしまいますなあ。。。。

ただ一方で、今たとえば役所とかが別のビルに移った、官庁が統合された、なんてときに昔の役所をいつまでも思っているか、というと疑問でもあるわけで。20年くらい経ったら皆気にせず、忘れてそうでもある。
そう考えると、まあ意外とそんもんなのか、と思わんでもないw