朝食、サバとホッケの干物、キャベツの千切り

昼食、海苔入りたらこパスタ

夕食、ウインナーとハムともやしの炒め物、インスタントラーメン

これで太るな、というほうが無理というもの。

1万3000歩

今日も相変わらず仕事が進まない。
というかやる気スイッチが消えてしまった。。。。
うだうだしているうちに少しは外の空気を吸おうと思い、井土ヶ谷へ。

昨日は保土ヶ谷のいわな坂あたりで見事な庚申塔があったので、かまくら道つながりで来てみた。
南区も歴史の遺構を散歩するルート案内の看板を立てていたので、それを見るとバッチリ庚申塔がある。

というわけで庚申塔を求めてうろつくのだが、井土ヶ谷周辺は完全に住宅街で、小高い山の上まで住宅街。
そんなところに残っている庚申塔は、もう周囲に旧道の名残はほとんど無く、かろうじて住宅街のなかに残っているに過ぎない。
それどころか、もういつ失われてもおかしくない。

仕方ない。
神社仏閣と違い、もともとが庶民の俗信である。
木村彦三郎言うところの「美術的価値すら無い」のである。

しかしこの私の庚申塔愛は、もう止めようがなく。
それはまあ結局この庚申塔は「道ばたの神さま」なのである。
「神様」でなく「神さま」。
このニュアンス。

私には木村の本のタイトルのような「道ばたの信仰」は無い。
信仰心は一切ない。
お庚申をしよう、という考えも無い。

ただ愛おしい。
もうこの庚申塔が愛おしい。
可愛くて仕方がない。

ずっと昔からある、そこにただあって人々を見守ってきた神さま。その歴史といじらしさがもう愛おしい。

道ばたの神さまはいつもそこにいて、もう顔も判別できない三猿と一緒に長い年月佇んできたわけである。
もうそれに思いを馳せるとたまらなくなる。
お地蔵様への思いに近いかもしれない。
そういえばお地蔵様はあまり見ない、か?
あるところにはあるんだが、庚申塔の数が凄いからなあ。。。


できればこの小さな道ばたの神さまを少しでも多くの人に愛されてほしいと思う。
今かろうじて残っているのは、地元の人のほんの少しの善意であって、井土ヶ谷のようにもう見渡す限り開発が進むと残っていくのは難しくなるだろう。寺社仏閣は残っても、庚申塔が残るのは難しい。なにしろもう都会には土が無い。気軽に庚申塔を移せない。コンクリートと一体化した庚申塔は、いずれくる付近の住宅の改築、道路の拡張工事、マンションの建設で失われていく運命だ。。。。。